ていねいにスラスラと

おかだ式計算プリントシステムの開発者のつぶやき

病気や障害の診断名は自分らしい学びへのヒントなのです

診断名に振り回されてはいけない

現在、日本の精神科医療において診断の基準となっている一つの指針がDSM−5だ。DSMとは Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders の頭文字で、日本語に訳すと「精神障害の診断と統計マニュアル」となる。

英語であることからも分かるように、アメリカ精神医学会の手によるものだ。その分類に従って、○○障害という診断名がどんどん増えてきている。

精神科のお世話になると、診断名がついて「困っていることの原因はその障害なり病気なりのせいだったのか」ホッとされる方もいらっしゃる。精神療法なり薬物療法なりによって、症状が改善したり、生活が楽になることもある。

ここで問題となるのが、障害と病気の違いだ。

障害は生まれついての質(たち)のようなものだから、劇的に良くなることはない。その質との付き合い方を変えることで暮らしやすくなることもあるが、本質は変わらない部分が多い。一方病気の方は、風邪や胃腸炎、あるいは骨折のように、跡かたもなく消えてなくなるとはいかないとしても、それなりに良くなる。

だから病気の方が障害よりマシかというと、そうとも言えない。

病気には再発があるし、障害とも上手く付き合うことは不可能ではないからだ。

例えば私は重度の近視という障害があるが、メガネを掛けることでほとんど困ることはない。最近はかなりの老眼という障害も付け加わったが、二つの眼鏡を使えば何も問題はない。

診断名は属性の一つにすぎない

私が気になっているのは、○○障害と診断が下ると「このことは○○障害の人には克服できない」という偏見に、医者や先生といった指導する立場の人たちや家族などの周囲の人たちはもちろん、当の本人までもが縛られてしまうことだ。

近視なら眼鏡をかければいいだけのことなのに、注意欠陥多動性障害だと診断されると「忘れ物をするのは仕方がない」と諦めてしまいがちだ。自閉症スペクトラムだと診断されるとコミュニケーションがむずかしいのは仕方がないと当の本人も諦め、周りの人も放置しがちになる傾向は否めない。

しかし、同じ診断名をもらってもその症状も有効な対策も一人ひとりみんな違う。周囲の人の理解や努力で軽くなることもあれば、本人の意志や学習で解決に向かうこともある。

その可能性を切り開こうとすることが「人間として生きる」ということだ、と私は考えている。

診断が下ったからと言って、もうどうしようもないと諦めてしまっては、猿山のサルや水槽の中のマグロのように、餌をもらって生きているだけの生き方を選ぶことになってしまう。

日本国憲法第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」に反する行為だ。

神様はとっても不公平なので、程度の違いはあるだろうが、改善の方策は絶対に見つかるのだ。

人間の可能性を拓くよい学習

どうして一介の学習塾の主宰者ごときの私にそんなことが断言できるのか?

それは、公文式の指導者に「この子にはたし算は無理です」とサジを投げられた自閉症の子どもが、10年の努力の結果、いまかけ算の筆算に取り組んでいるからだ。

この子にはかけ算九九は覚えられませんと、お医者さんに言われた精神遅滞の子どもが割り算に取り組んでいるからだ。

小学校はズーッと支援学級でしか学んでいなかった子どもが、普通高校を卒業し、さらに介護の専門学校を卒業しようとしているからだ。

その人にふさわしい学び方を持続すれば、○○障害を抱えながら、この社会の中で役割を見つけることができる可能性が拓けるからだ。