ていねいにスラスラと

おかだ式計算プリントシステムの開発者のつぶやき

学習は正解を知ることではなく創造すること

学習の語源は「論語」にあります。

 

紀元前500年前後に生きた中国の哲学者の弟子たちのやり取りなどを書いた本が「論語」です。

 

キリストもそうですが、本人は本を書かずに、弟子が本を書くのですね。ひょっとすると、孔子もキリストも、書き言葉にすると本当のことは伝わりにくいと思っていたのかもしれません。

 

それはさておき論語には次のように書いてあります。

 

子曰、學而時習之、不亦説乎。

 

もとが中国語ですから、昔の日本人は前後を入れ替えて読むことで、その意味を想像しました。それを書き下し文といい、今でも高校の授業で習います。

 

この部分を書き下し文にすると

 

子(し)曰(いわ)く、学びて時に之を習えば、また説(たの)しからずや。

 

という風に高校では習います。まだ分かりにくいので、現代日本語に直すと

 

孔子先生は「学んで、復習すれば、それは楽しいことだね」とおっしゃった。

 

とならいます。

 

でも、学校の勉強などで復習して楽しかったという経験は、少なくとも私にはありません。

 

テスト勉強で以前に習った事を復習しても、「これも覚えていない」とか「前は解けた問題が解けなくなった」とかがっくりすることはよくありました。逆に、授業で聞いたときにはよく分からなかったけど、復習してもやっぱりよく分からないこともよくありました。

 

どうも孔子が言っている「学ぶ楽しさ」と学校の勉強の復習とは違う気がするのです。

 

そこでDVDで映画を観ることで考えてみました。

 

1回目は、だいたい筋を追うのに必死だったりします。登場人物の名前を覚えきれないこともあります。話の流れがだいたいわかって、それでも感動したりします。

 

2回目に観ると、一回目には気付かないセリフがいっぱいあったりします。結末に至る伏線を発見したりします。よく出来た映画であれば、そんな発見が3回目、4回目でもいくらでもあるものです。

 

また、半年たった後や1年たった後で観ると、また新しいことに気がついたりします。自分が成長したり、経験が増えたりするからですね。

 

そう言えば先日、元フォーククルセダーズの北山修さんとアルフィー坂崎幸之助さんが歌う「コブのない駱駝(らくだ)」を聞いてむちゃくちゃ感動しました。フォーククルセダーズが歌っていたときは「変な歌やなぁ」くらいにしか思わなかったのですが。

 

 

つまり、学ぶということは「どこかにある誰かの言っている事を理解したり、覚えたりすること」ではないと孔子は考えていたのだろうと、私は思うのです。

自分の中に今まで無かったものの見方やドラマを作り出せたときに人は「面白い」と思うのです。そういう「創造」が起こったときに始めて人は学び「説(たの)しい」と孔子は言ったのではなかろうか…

学ぶということは本来そういうもので、タブレットの中にある「正解」をクリックすることではない、と岡田は思うのです。

 

※ この記事は4年前の記事をほぼ全面的に書き直したものです。

 

 


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