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ていねいにスラスラと

おかだ式計算プリントシステムの開発者のつぶやき

私たちは真実の世界に通じている


一昨日・昨日と
「モノの世界」
「いのちの世界」
「感じとる世界」
の三つの世界と人間について
考えてみました

こんなことは
犬や猫はもちろん
お猿さんでもイルカくんでも
考えることはないと
私は思います


人間は子どもでも
動くものがどうして動くのか
などと考えるものでしょう?

私も
小さいとき目覚まし時計を分解して
組み立てようとしてできずに
叱られたことがありますが
とにかく仕組みを知りたくなるのが
人間なのではないでしょうか


仕組みだけではありません

理由も知りたくなります

どうして人間に生まれたのだろう?
どうしてこんな顔なんだろう?
どうして昼間は明るくて夜は暗いのだろう?
暗い夜に星が光るのはなぜだろう?

いろんなことが気になって
目に見えるものはもちろん
目に見えず手で触ることもできない
「いのちの世界」や「感じとる世界」にも気づき
さらにその仕組みや理由にも思いを馳せるのは
人間だけのことでしょう


そして
この宇宙は
モノといのちと感じだけではなく
もっと神秘的な背景があって
生まれ息づいているのです

現代人は
私たちの宇宙が
だいたい137億年位前に
はじまったことまで知ってしまいました

それは
個人個人の気分や感情を超えて
この宇宙の真理とつながっています

そして
私たちの心は
モノやいのちを感じ
感じることから考え
ホンの一部分だとしても
この宇宙の真理にも
確かに迫るのですから
「モノの世界」
「いのちの世界」
「感じとる世界」
そして
「真理の世界」
の四つの
まったく異質な世界の間を
自由自在に行き来しながら
私という人間は息づいている
と考えています


さて
最初の問いである
「あの世はあるのか?」
です

生きている私の肉体には
「いのち」が宿っているのでしょうが
死ねば「いのち」が肉体から離れていくのでしょう

そうして肉体はただのモノになり
腐りくずれなくなっていきます

ところが
私の主な実体は
「感じとる世界」にあります

さらに一部分は「真理の世界」にもあります

肉体と「いのち」がなくなっても
そっちの私はなくなるとは思えないのです



たとえば
テレビに富士山が映っている
と考えてみてください

私は富士山を見ているつもりですが
本当はテレビの液晶画面の上の
光の変化を見ているだけのことです

でもテレビカメラの向こうには
確かに富士山があります

テレビのチャンネルを変えても
テレビが壊れても
電波の状態が悪くなっても
相変わらず富士山はあります


私がいま感じたり考えたりしていることと
肉体との関係は
本物の富士山と
テレビ受像機に映った
富士山の像との関係に似ている
と思うのです


このたとえで言えば
いのちの世界は電気だ
と考えればいいでしょう

停電すれば
テレビが壊れていなくても
富士山は映りません

でも富士山はありますよね

死ぬということは
テレビが壊れかけたところに
停電してまったく映らなくなった
みたいなことでしょう


だとすれば私の実体は
テレビが壊れても
停電してもあり続けている
富士山だとしか思えないのです

そう考えると
生きている間からもうすでに私は
「あの世」にいるようなものではないか
とすら思えるのです


もちろん
テレビも電気もない富士山は
テレビに映っていたころの富士山とは
別のものであり
富士山だって噴火して
今の形ではなくなることもあるでしょう

死んだらどうなるのかと聞かれても
私は死んだことがないので
わかりません

ましてや
生まれ変わるかどうかなど
さっぱり分かりません


それでも
死んだらおしまい
というわけではなさそうだ
というのが今の私の結論なのです


  (おわり)