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論語に学ぶ「学習」(2)

 論語も面白いと思ったのは、安富歩さん(東京大学東洋文化研究所教授)の「生きるための論語 を読んでからです。

 最初から、注意深く見てみましょう。

 子曰、學而時習之。不亦説乎。

 「子」は孔子のこと。「曰く」は「言う」のていねい語です。ですから「子曰」は「先生はおっしゃいました」ということです。 

 「而」は、「そして」のように、普通のつなぐ言葉です。

 「學」と「習」は別の字ですから、意味も違います。

 「學」というのは、誰かの話を聞いたり、本を読んだり、ものごとを観察したりして、自分の外から何かを取り込むことです。

 人の話を聞いたり、本を読んだりして「そうなのか」と思うことはあります。けれども「わかったこと」が「できること」ではありません。そこで「習う」のです。

 ふつうの解釈では、この「習」を「復習する」としていますが、安富歩さんは「復習が悦ばしいとは思えない」そうです。私も安富さんに賛成です。テスト勉強のように、同じ内容をただ覚えようとするだけで「悦ばしい」わけがありません。

 たとえば、自転車に乗ることで考えてみましょう。乗っている人を見たり、話として乗り方を教えてもらっても、すぐに自転車には乗れません。補助輪をつけたり、後を押さえてもらったりして、誰かに手伝ってもらって一応は乗ってみる。誰かに手伝ってもらいながら自転車に乗り続けるわけです。

 それでもすぐには補助なしには乗れません。

 何日か何週間か、お手伝いをしてもらいながら自転車に乗っていると、ある日突然、お手伝いなしで自転車に乗れるようになります。それまでのすべてが「習」であるとすれば、「復習」とか「練習」というより「稽古」の方が、私にはしっくりします。

 聞いたお話や読んだ内容をなぞるだけではなく、自分の心と身体を使って、挑戦し、失敗し、どこが違うのかを探り、ふたたび挑戦し… 確かめ、検討し、工夫し続けることが、この文の「習」が意味するところではないかと思うのです。

 教わったことを復習して忘れないようにするのではなく、できないことに挑戦し続けることなら「悦ばしい」ということに抵抗はなくなります。


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